· 

欠史八代〜崇神天皇/いときょう先生にホツマを学ぶ04 もぎせかチャンネル



欠史八代〜崇神天皇/いときょう先生にホツマを学ぶ04

もぎせかチャンネル

 

チャンネル登録者数 14.8万人

チャンネル登録

<__slot-el>

1177

共有

保存

1.8万 回視聴 3 日前

縄文ホツマ塾(いときょう先生主催)

https://jomonhotsuma.right-road.net

いときょう先生の本 …

...もっと見る

59 件のコメント

並べ替え

コメントする...

もぎせかチャンネル さんによって固定されています

@maomao96363

3 日前

【訂正】0:30- ×ヒメタタタ→◯ヒメタタラ

22

返信

1 件の返信

@USER-NX1RX8VH1X

3 日前

深い知識があって、神社参拝をされる先生はその地で何を受け止め古代史を紡いでいるのかを垣間見られるシリーズです。

先生のご著書がいつかハードカバーの全集になると素敵だと思っています。

インターネット上で検索した知識は手軽ですが、芯の方まで刷り込まれる知識にはならないような気がするのです。

縦書きでその行間まで読み取れるような媒体はあって然るべきな存在です。

16

返信

1 件の返信

@USER-OY9HR8GB8V

3 日前

こんにちは、茂木先生。

茂木先生の膨大な世界史や日本史の知識でホツマツタエを分析してもらえるとさらに深堀りできるとおもうので、よろしくお願いします。

しかし、ホツマが関東の国だったとは、驚きました(笑)

お互いの考えを否定せずに確認し合うスタイルは見ていても楽しいですね、ありがとうございました。

続きを読む

6

返信

@USER-FR3WQ1VY5P

3 日前

いときょうです。3:20以降の話が分かりにくいので以下に整理します。ヤエコトシロヌシ(八重事代主)の娘がヒメタタライソスズ姫です。ヤエコトシロヌシの兄カンタチが4代大物主となっています。事代主は大物主を補佐する役職です。

68

返信

1 件の返信

@AWAKIMI6098

3 日前(編集済み)

讃岐国一之宮の「水主神社」の社伝には、卑弥呼の死後、国内が内乱状態になったので、当時7歳の百襲姫は

争いから逃れて讃岐の地に避難して来られた・・という事が書かれているそうです。

香川県には他にも多くの百襲姫にまつわる伝承が残されていますので、讃岐と百襲姫には深い関わりがあったと思います。

18

返信

·

2 件の返信

@USER-CN2IC9KZ2C

3 日前

ホツマツタエの詳細な記述が興味深く、、、いときょう先生との出逢いでますます深みを増しますね、、、。ありがとうございます。

6

返信

@USER-MR4UZ5MV8H

3 日前

これらの系図を目にする事により 日本人が目覚める️

只々 凄い️有難うございました。

14

返信

@USER-WK8RH7GP5P

2 日前

凄い家系図ですねいときょう先生の努力の結果ですね、古事記と照らし合わせると、謎が解けていきますね

1

返信

@NKZKS6976

3 日前

「ホツマ」が関東を意味しているというのは、興味深いですね。茂木先生のおっしゃるように欠史8代の時代は神憑った姫様たちの権力の方が強かったのかもー。天皇は軍部を担っていらっしゃった感じなのかにゃ~。

8

返信

@USER-BH5YQ3CR4H

3 日前

いつもありがとうございます。

いときょう先生の系図がすごいですね。

今の私達はどこかで繋がっているのだと思えます。

まだまだ楽しみにしております。

4

返信

@MUSASHINO_103HI

2 日前

欠史八代、古事記や日本書紀だと記述があまりないのに、ホツマの伝承だと記述が多くあるってのが気になりますね。

この時代、神託を受ける巫女の存在は、権力を持つ大王(天皇)よりも上だった面もあると思うので、古事記や日本書紀を編纂する際に、あえて記述しなかったのかなって思いました。

2

返信

@HIYOKO-CHAN

2 日前

「ホツマ」を聞かせて頂いて、目から鱗が落ち続けています。

ありがとうございます

卑弥呼は何処にいたのか、よく議論されていますが、

「ホツマ」では、ただの役職名なのですね。

もしかして、各地にそのような役職の女性がいたのだとしたら、

平原遺跡に眠っているのは、

伊都国担当の、何代目かの卑弥呼なのかもしれませんね

続きを読む

1

返信

@JOMONJIN_

3 日前

ホントいときょう先生すごい

そしてず️っとお若いですよね

いつもありがとうございます🇯🇵

4

返信

@AIAIMI38

4 時間前

このシリーズも大変面白くて。でも、じっくり画面を観ながら倍速せずに聞かないとしっかり頭に入らない。

ゆめラジオ先生との共著の続きを先に読むべきか、動画を観るべきか悩むところです。

返信

@YASUSHIFUKAI4212

2 日前

いときょう様、博学多識なホツマツタエ研究者と存じ上げます。紀行のご著書も拝読しましたが、まだまだ奥深い世界と拝察しますので、もぎ先生と共同で大切な「日本史」をご紹介くださいませ。

1

返信

@FUSSANOEL2024

3 日前

家系図 凄いですね

.

12

返信

1 件の返信

@USER-UY2FO4HJ6W

2 日前

今、國學院博物館にて三嶋大明神企画展やってます。

オオヤマツミ、事代主、伊豆七島の繋がりなど大変興味深かったです。関東以北が気になってしょうがないです。

2

返信

·

1 件の返信

@KAKOCHAN8622

3 日前

欠史八代というのは、記紀を編纂した権力者たちがあえて記さなかったということでしょうか。何か都合が悪い?

ホツマツタエ面白いです

5

返信

@MREMILYTK

2 日前(編集済み)

崇神天皇のことは一番気になっていたので、ホツマ現代語訳を手にした時、まず最初にチェックしました。

疫病が流行り農作物の不作が続き民が苦しんでいた時、崇神天皇があちこち回って祈祷したら世の中が良くなったので、「はつくにしらす みまきのよ(世)」と称え民が喜びました。みたいな感じの文脈で書かれていました。

今村聰夫氏の訳では「はつく に」を「コノハズクのように、国中に目を配った」と解釈されていました。

1

返信

·

2 件の返信

@USER-ZG2WO1MH2L

3 日前

欠史八代の時代は女性の出自や役割も重要で、出雲の影響も濃い感じですね。

名前のタケ=武力、ワケ=言葉で諭す、というイメージを受けました。ミミも気になります。

1

返信

@MAYUMI3300

2 日前(編集済み)

【系図】

父がいて、母がいて、子がある。

系図というのは、

何と楽しいものなのでしょう。

兄弟がわかる。

従兄弟がわかる。

叔父・叔母がわかる。

家族のおしゃべりが

聴こえて来るのです。

わたしも系図魔です。

✿古事記における

天之御中主神から始まる

天孫族の系図。

✿出雲系の系図。

✿神武天皇から今上天皇まで、

主だった妃や皇子皇女、

豪族・貴族・武士など、

繋がるものはどんどん繋げ、

紙面にびっしり。

紙をつけたしつけたし、

27枚にわたる系図を

作り上げました。

歴史上の有名人たちが、

こんな風に繋がっていたんだ〜

みんな親戚じゃん!!

という発見が面白くて、

パズルをしている感覚。

作ること自体が、

ままごと遊びのようで、

とても楽しい作業でした。

系図を見ると、

縦軸に血の流れ(時間軸)、

横軸にその時代に

同じ空間を共有した人たちが、

並べられ、

背景がくっきり浮かんで来ます。

視覚的に歴史がわかるのです。

欠史八代は、

情報が少ないと言われますが、

妃と皇子皇女は

しっかり書かれています。

それ以外は、

書けない理由が

あったのでしょう。

それでも、

妃と皇子たちの名は

超重要事項です。

母が誰であるか…

母の家系が、

その政権の中枢におり、

政権を支える氏族です。

初期の系図に出て来るのは、

シキ、シキ、シキ…尾張…

シキって誰だ⁈

系図を作るようになって、

古事記とは実は、

起きた事実の説明ではなく、

7〜8割ぐらいは、

系譜の説明であると分かりました。

名前を残す努力が

ひしひしと感じられます。

【日子坐王】の系譜が

何故こんなに詳しく

延々と書かれているのか…

この王は一体誰なのか…

大国主の子孫に

ダラダラと続く神さま…

こんな神さま

どこに祀られている?!

系図を作っていたとき、

謎だった沢山の疑問。

出雲王家の伝承を読んだとき、

雷が落ちて、

隅々まで電流が流れたように、

謎が解けてゆきました。

そういう意味だったのか…

出雲口伝における

系図のつながり方は凄まじく、

正史では縦にしか繋がらなかったものが、

四方八方につながりました。

直感的に

ただ事ではない…という激震です。

出雲口伝を読んで確信したことは、

古事記には

何一つ無駄な記述はない

ということです。

一見、

なんだコレ⁈

こんなの書く必要ある⁈

という、

変な記述が沢山あります。

そういう記述こそ、

とても重要なのです。

全てに意味があって

書かれています。

分かる人には

分かるように。

暗号です。

正史が編纂された頃は、

多くの人たちが

分かっていたのでしょうね。

正史とともに、

先代旧事本紀やホツマツタヱ、

出雲口伝や宇佐の伝承、

その他、古史古伝を比べて見ると、

くっきり浮き上がってくるものが

ありますね。

現在、色んな文献が

自由に手軽に

楽しめる時代になったのは、

ネットが発達したせいでもありますが、

それぞれを詳しく研究された方々の

結晶を味あわせていただき、

とても幸せだと思います。

ありがとうございます。

続きを読む

4

返信

@USER-TI4KU2DP2L

3 日前(編集済み)

茂木先生の古代の女性の役割のお話を伺って、「あ、面白い」と思いました。(☆∀☆)

古代の上座下座がよくわからない席次だったとすると、集会場で女性が神託をすめらぎにお伝えし、すめらぎが具体的に指示を出す様子を海外の方が見れば、「女性のトップが男性の補佐を受けてまつりごとを行う」国の形として受け取るのも自然だと思ったからです。Σ(>Д<)

邪馬台国の記述は異人の誤解がルーツかも!?( *´艸`)

今も来て 糸が織り成す まことなる

今日浮かびたる 模様あざやか

続きを読む

4

返信

·

1 件の返信

@FRANCESCOGATTI3002

1 日前

これだけ広い範囲、複数の事業を平行してやってること考えると、文書行政があったんじゃないの?って思ってしまう。

1

返信

@KZN3720

3 日前(編集済み)

志賀海神社は阿曇族の本貫だが、なぜか発祥地は大分県にある。真偽不明だが実にあり得る話である。綿津見族の始祖は豊玉彦といって豊姓である。

綿津見族は縄文時代からおり、宇佐にも磐座信仰(大山祇)があった。時代が下ると長江から倭人が渡来し交流が始まった。綿津見族は倭人と混血し弥生人(縄文と倭人のmix)となった。

大陸文化の流入が始まると綿津見族の本貫は玄界灘一帯と見なされるようになった。那珂川流域に拠点を構えた綿津見族は後に阿曇と呼ばれ奴国を形成した。現地人は“なかの国”と言ったかもしれないが漢民族に奴国と表記されたのかもしれない。

綿津見族は、弥生時代に既に朝鮮半島にいた秦族の祭祀を取り入れ帰還した(秦氏の一斉渡来は応神朝である)。宇佐の綿津見族が最も秀でた祭祀を行えるようになり後に意富氏と呼ばれるようになった。また繁栄した九州北東部は後世に豊の国と呼ばれるようになった。

意富氏は各地に招聘されることもあっただろう。

九州各地の豪族と系図で繋がっており同祖とされている。意富氏は九州のみならず、出雲連合国にも招聘された。意宇郡、因幡、奈良県田原本町などに痕跡が見られる。田原本町は多氏の本貫であり弥生遺跡の唐子鍵遺跡がある。

意富氏は発生母体となった綿津見族とともに阿波の那珂、北関東の仲国などにも招聘された。今でも各地に鹿信仰や甕信仰にまつわるものがみられる。彼らは招聘された地では覇権を握るというよりも要請に応じて各地の祭祀を仕切る、或いは加わる形で活動したようである。

神武東征は、天火明命の末裔勢力の要請によって計画された。神武は豊玉姫の末裔であり、豊の国の傍流として九州のどこかにいただろう。当然、豊国と隼人族との混血氏族として日向にいたとしても矛盾しない。奈良は当時、三輪(ミマ)あるいは葦原中国と呼ばれヤマトとは呼ばれていなかった。元ヤマト(邪馬台国?)からの東征以降のことである。

ちなみに神武の兄の稲飯命は朝鮮に渡り新羅王族の始祖となったという伝承がある。朝鮮に残る神話でも新羅王族の朴、昔、金は倭人とされている。天日矛は孝安朝に渡来した稲飯命の末裔であるから、新羅渡来の人物に対して尊称が与えられた。新羅が敵国の時代に編纂された時代にあっては異例のことである。都怒我阿羅斯等との決定的な違いである。

話を戻す。神武東征後、皇位を綏靖に譲った神八井耳は当時、三輪山の神を祀っていた意富氏の祭神を皇祖神に替えさせ、管理者として大日諸(天火明後裔)を任命した。これが皇別氏族、多氏の始まりである。以降、大和王権の勢力拡大に伴い、各地にいた意富氏は祭神や始祖を変更することになっていった。

秦氏は応神朝の時代に渡来したが、最初から宇佐を本拠地としたわけではない。当初は宇佐から少しずれた香春山、田川界隈でありそこに元宮がある。後世に宇佐神宮へ習合されていくことになる。一時主導権が秦氏関連の辛島氏となったが、後に意富の末裔の大神氏に戻り、以降続いている。そのため、宇佐神宮は大神氏、宇佐氏、辛島3氏で運営するという複雑な形式をとっている。また意富氏の活動地と秦氏の活動地は極めて重なっている。

宇佐神宮、志賀海神社、美保神社の神紋はともに三巴紋。渦潮を表し綿津見族の紋である。また君が代は、志賀海神社の祝詞に由来する。全て意味があった。

続きを読む

12

返信

3 件の返信

@USER-ZC6JD8DP1R

2 日前

欠史八代はググるとどうやら戦後言われるようになったらしいけど、自虐史観ですかね?長く続いてないことにしたいらしい

残すはあと垂仁天皇と景行天皇ですね、次回に期待!

2

返信

@USER-JN5VY9GN2X

3 日前

古事記、日本書紀が日本神道の歴史だと思っている、日本人は多いと思いますが、ホツマツタエはもっと長い歴史が記されています。

これを取り上げる、もぎせか先生の慧眼おそるべし。

12

返信

1 件の返信

@LICHTSMITH

3 日前

諸説あり。

3

返信

@USER-HQ6VU8IS3W

3 日前

九州は、皇室の味方になったり敵になったりしてますが、支配者が変わっているのでしょうか。

4

返信

·

1 件の返信

@USER-JE1TZ4RP8D

3 日前

茂木氏が『いときょう』先生から丁寧に教えを乞うのは…田中英道先生以外に余り見かけない。

後々20年後にはホツマツタエを義務教育に組み込めば…日本古代史(日本史)を学ぶキッカケになりそうだし…同時に『自虐史観』からも解き放たれる氣もする。 御話の途中で『イケダ』氏の御名前が個人的に気になりました。

配信有難う御座います。

3

返信

·

1 件の返信

@USER-RY4LH4RU8V

3 日前

鬼ノ城がありまして、吉備津彦が退治したと、、

鬼ノ城は、古代山城でした。

3

返信

·

1 件の返信

@TANAKA-ICHIRO999

3 日前(編集済み)

メジャーな記紀(学校教育のせい?)に対しこの様な文献があるとは。

よく残っていましたね。系図は海部氏のものと比較すると何か見えるかも? 欠史八代ですが正統です。副反応が有りますが安全です。表には必ず裏がある。あまり変わっていない? 難しい日本語。

1

返信

@MARIAANESAN2

3 日前

何故、隠したかを知りたいですね。

2

返信

@USER-RQ6OR3VH4Q

2 日前

神武から数代のお妃は、なぜか出雲出身の方が続きますね。

出雲を追いやったはずなのに。たたらってそういう事だしね。

1

返信

@USER-TN5BV8WC1Z

3 日前

ホツマツタエ時代

統治側の解釈なのか?

2

返信

@MUUSUNRISE

2 日前

池田満さんのお話を。

1

返信

@SWANCHAN.

3 日前

神武天皇の妻、アビラヒメとは

九州に移った津軽夷酋「阿比登」の一族出身ではないですか

1

返信

·

2 件の返信

@USER-XE8IJ5RX4J

3 日前

モモソヒメが卑弥呼?

1

返信